岩滝の歴史 −35−

室町・戦国時代(前編)K 

−一色義有(左京太夫、義季、松丸)、義信(吉原越前守)、義春(宮津、八郎持長の子)−

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文亀元年3月(1501)武田元信の軍勢を丹後から撃退した吉原四郎義清(一色義遠)は、丹後在住の重臣たちと相談の上、三河の国に止まっていた長男義有を呼びもどして、本家の跡を継がせて丹後の国王とし、与謝郡の府中一の宮(宮津市)の近くに館をつくり、重臣の延永修理進(のべながしゅりのしん)を陣代として丹後を支配させ、父義遠はその8月、吉原城(中郡峰山町)から石川城(与謝郡野田川町)に移って後見人となった。

義有はほとんど京都室町の邸に住んでいたが、領民は彼を尊敬して「一の宮殿様」と呼んでいた。義有のことを義季ともいい、自分から松丸ともいっていた。城は成相寺に近い阿弥陀ヶ峰にあった。
竹野郡の成願寺(丹後町)の出城にいた義有の弟義信は、父義遠(吉原四郎義清)が石川城に移ったので、成願寺の出城には家臣をとどめておいて、吉原山城(峰山町)に帰り吉原越前守義信と名のった。

永正3年3月(1506)丹後の守護武田元信が細川澄元の支援を得てまた加佐郡に攻めてきた。
一色八郎持長の子義春がこれを防いだが支えきれず、武田勢はその7月大川(由良川)を渡り、普甲峠を越え8月、宮津になだれ込み、如願寺で丹後の兵と戦い、寺を焼き払い、府中に渡り、一色義有の本城阿弥陀ヶ峰を見下す成相寺に陣をしいた。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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