岩滝の歴史 −36−

室町・戦国時代(前編)L 

−一色義有(左京太夫、義季、松丸)、義信(吉原越前守)、義春(宮津、八郎持長の子)−

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京都室町にいた一色義有は急をきいて、小西石見(いわみ)守を丹後に送って丹後勢をはげました。
丹後に下った小西石見守は、石川城の義遠、宮津の義春、吉原山城の義信と手をつなぎ、府中陣代延永修理進を助けて成相寺の武田勢を包囲した。
驚いた武田元信は、4年4月、使いを細川政元へ走らせて援軍を求めたので、政元・澄元父子は早速、小笠原朝経入道(沢蔵軒(たくぞうけん))を将として大軍を送った。

小笠原は奥郡(中、竹野、熊野郡)との連絡をたつために、山田、加悦方面の攻略に向い、同年5月には山田城の下山将監、加悦城の石河直経(なおつね)ら一色方の諸将との間に和睦の様子が見え始めてきた。
ところが、その6月、細川政元が逆臣葛西(かつさい)のために嵯峨で殺され、形勢が逆転した。
京都室町にいた一色義有は、好機逸せず、丹後に帰ると、味方の陣頭に立って成相寺に迫り、寺に火を放って、夜襲した。

武田勢はたちまち総崩れとなり、大将武田元信は命からがら日置の浜(宮津市)から小舟を拾って逃げ去り、退路を断たれた小笠原朝経は、文殊堂内の無相堂にかけ入り割腹し、腸(はらわた)を天井に投げつけて自殺し、一族郎党八十二人も彼の後を追って殉死した。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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