岩滝の歴史 −37−

室町・戦国時代(前編)M 

−一色義有(左京太夫、義季、松丸)、義信(吉原越前守)、義春(宮津、八郎持長の子)−

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成相寺の焼討ちは、原型のとおりに建立するという約束であったので、その後一色氏の手によって建築復旧されたものであるといわれる。
翌永正5年、将軍義澄は近江にのがれ、前将軍義稙(よしたね)が再び征夷大将軍となった。
この年、丹後では一色義春が病死した。遺体は加佐郡行永(舞鶴市)の竜勝寺に葬った。

永正11年8月(1514)但馬の山名祐豊(すけとよ)が熊野郡久美浜に不意に乱入し、その機に乗じ若州の武田元信がまた普甲峠を越えて宮津に攻め込んで来た。吉原山城(峰山町)の越前守義信は熊野郡の氏家勢に下知して、9月8日、山名を撃退し兄一色義有は、上宮津の小倉、加悦の石川、和田の諸将を指揮して武田勢をむかえたので、武田方はなすすべもなく退却した。

それから間もなく一色義有は世を去り、一子義幸(よしゆき)が後を継いだがその年月日は明らかではない。
永正14年8月(1517)石川城の一色義遠は、災厄の因(もと)を断つため、逆に若狭の武田元信を襲ったが、朝倉孝景の為に邪魔されて目的を果すことができなかった。
大永元年12月(1521)丹後の守護武田元信が病死し、子元光が職を継ぎ、室町幕府では、将軍義晴が十二代将軍となった。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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