岩滝の歴史 −40−

室町・戦国時代(前編)P 

−一色義道(義通、式部太夫、左京太夫)−

〜其の壱〜


正親町(おおぎまち)天皇の永禄元年4月(1558)一色義幸が隠居して、その子式部太夫義道が後を継いだ。義道の弟義清は吉原越前守義信の後を受けて吉原山城(峰山町)により、吉原越前守義清と名のって奥丹後三郡を指揮した。よい家臣をもち、その家臣のため、三郡の城主、領民は義清を信頼した。
永禄3年(1560)織田信長が今川義元を桶狭間(おけはざま)の戦で破り、その名は一躍有名になった。
永禄8年(1565)将軍義輝が、もとの細川の重臣三好長縁と松永久秀のために殺された。三好、松永の二人は後難をさけて、義輝の弟にあたる鹿苑寺(ろくえんじ:金閣寺)の周嵩(しゅうこう)を討ち、更に奈良(南都)の一乗寺門跡になっていた覚慶(かくけい)を寺内におし込めた。

 

そこで、細川家の一族である兵部太夫藤孝は覚慶を救い出して近江の国に移し、還俗させて足利義昭と名のらせ美濃の織田信長に義昭を託した。
永禄11年2月(1568)都では足利義栄(よしひで)が三好、松永らにおされて十四代将軍となったが、美濃、近江を征服した信長は、足利義昭を奉じて都に入り、同年9月義昭を15代将軍の位につかせた。
翌永禄12年、信長は宣教師バードレンと近江の安土(あづち)で会見し、京都で切支丹宗を布教することを許可した。細川藤孝は、織田信長に会ってから、信長の人物にすっかりほれこんでしまった。
しかし、将軍義昭は、信長の人望を恐れ、藤孝の恩を忘れて信長を討とうとひそかに考えた。藤孝はこの計画を察して、再三、再四いさめたが、義昭は反省しなかった。

元亀元年(1570)織田信長は、越前の朝倉義景と浅井長政の連合軍を姉川に破り、これに味方した比叡山を焼き払い、僧を殺した。
漸く難をまぬがれた比叡山の僧の一部はのがれて丹後へ来た者もあったが、信長は追跡し、これをかくまった普甲寺は再び焼失した。
丹後に逃げて来た比叡山の僧に追い討ちをかけたのは信長の武将明智光秀の軍であったと伝えられているが、この事件に関し丹後の一色氏がどのような立場をとったということは不明である。
元亀2年(1572)細川藤孝は、三条実枝(さねゑ)から古今伝授(「古今和歌集」解釈の奥儀)を受け、歌道にもその名があらわれた。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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