岩滝の歴史 −41−

室町・戦国時代(前編)Q 

−一色義道(義通、式部太夫、左京太夫)−

〜其の弐〜


翌元亀4年、天正元年と改元、将軍義昭は武田信玄を誘って、信長を挟撃しようとしたが失敗し、一度は赦されたが、再び反抗したので将軍義昭は捕えられ、河内の国に押し込められた。将軍に味方した細川藤孝の兄三渕大和守藤英らは斬られた。
将軍家を相手とすることは信長にとって相当苦しい戦いであった。賊軍の名をさけるためには大義名分が必要であった。この計画を上手に仕上げたのはすべて細川藤孝であった。藤孝は抜群の功により、その7月14日、山城の国の桂川の西、長岡を与えられ、姓を長岡と改め、ついで天正3年9月、丹波の国の船井、桑田両郡を追加された。
同じ足利の一族である一色義道は、藤孝のような世渡りは良心が許さなかったものか、天正3年(1575)信長から丹後の守護に任じられながら意思の疎通を欠くものがあった。しかし一説には「一色義道は悪政にして国人順わず」とも伝えられている。

比叡山の僧や、足利の残党が彼をたよって逃げてきたのは、信長と義道の対立的な関係を察していたのがその理由であったのかも知れない。義道もこれをかばって丹後八十五ヶ城に配して国の守りを固めた。
信長は、義道に再三反省を促したが、義道聞き入れず、丹後にひそんでいる比叡山の僧らはひそかに信長誅滅の祈祷まで行っているといううわさがひろがっていた。
天正4年9月(1576)信長は新しく出来上がった安土の城に移り、中国征伐の作戦を練っていたが、丹波、丹後から目をはなすことができなかった。同5年10月、信長は明智光秀と細川藤孝を呼んでこの気持をうちあけ、二人が協力して、ます丹波をうち、続いて丹後を平定してくれたら、丹波を光秀に丹後を藤孝に与えようと約束した。そこで細川藤孝は、天正6年4月(1578)長岡、船井、桑田の勢を集め、その子忠興、興元とともに宮津に攻め寄せて来た。

藤孝の長男、与一郎忠興は槙島の合戦(信長が将軍義昭と戦った)に十一才で初陣して手柄を立て、天正5年、十五才で河内の国、片岡の城にかくれていた松永弾正一味の攻略に羽柴筑前守秀吉の軍に加わり、弟の頓五郎興元十四才と共に出陣し、敵の首をとって信長から感状受けたほどの武将であって、船井郡園部の城主であったといわれている。
不意うちを食った一色方の武将上宮津の小倉播磨守と下宮津の野村将監は討死し、細川方は上宮津猪の岡山(宮津市,宮村八幡)に本陣を置いた。
一色義道は、八田、栗田等の兵をひきいて北上し、須津、弓木など近在の諸将が南下して猪の岡山の細川軍を包囲した。不利と見た細川と明智は軍をまとめて丹波の園部に引きあげた。
「丹後田辺府志」には、天正の頃、宮津城には、一色五郎満信がいて、細川藤孝が丹後を領したが、少しもひるまず八幡山城にひきうつり、と書かれている。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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