岩滝の歴史 −42−

室町・戦国時代(前編)R 

−一色義道(義通、式部太夫、左京太夫)−

〜其の参〜


天正6年(1578)織田信長の勧めで細川忠興と、明智光秀の娘玉子が結婚している。
翌天正7年3月、明智光秀は、細川の援けによって丹波を攻め、亀山(亀岡市)に居城した。その5月、光秀の手兵三百を援軍とする三千余の細川軍は、前年の丹後攻撃の失敗に鑑み、今度は真正面から一色義道の本城、加佐郡八田に押し寄せ、両軍の間に激しい攻防戦が展開された。
この戦は初めから一色氏に不利であった。

「義理無道にして国人順わず」義道の人望はうすらいでいたのに反し、細川の背後には織田信長という新興勢力があった。丹後八十五ヶ国の城主の中には、室町幕府を倒し、着々と中国平定の歩を進めて行く信長の手腕に対する恐れと尊敬の念があった。
細川方は丹後の攻略が容易でないことを知っているので、明智光秀は信長の命令であるとの口実で、日置城主(宮津市)松井四郎右衛門康之(佐渡守)を味方にするため細川藤孝の女婿とした。同じ方法で算所(加悦町)の安良城主有吉将監父子を味方にした。

丹後の事情に明るい松井、有吉の作戦が功を奏して、一色義道、義俊父子は建部山城を支え切ることができず、天正7年9月、城を捨ててひとまず奥郡に落ちようと考え、部将をまとめて大雲川(由良川)を下って中山城(舞鶴市東雲附近)に退却した。城主は沼田幸兵衛(後に勘解由(かげゆ))。沼田は早くから細川に心をよせていたので早速細川方の謀将、松井、有吉に内通した。
細川忠興、興元兄弟を将とする松井、有吉等の合計一万四千七百余人の軍勢が二手に分かれて攻め寄せて来た。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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