岩滝の歴史 −25−

室町・戦国時代(前編)A −山名時氏の乱−


北朝観応3年(南朝文和元年−1352)但馬の守護山名伊豆守時氏が尊氏に反し南朝に味方して丹後に乱入した。
一色勢よく防戦したがついに破れ、丹後の国は山名時氏に奪い取られた。時氏は更に京都に攻め入り、足利義詮は一時、美濃の国にのがれ、尊氏は時氏を追って入京した。しかし戦に破れ、北朝後光厳院をいただいて近江の国に敗走した。
尊氏はようやく態勢を挽回して南朝方を破って京都を回復した。
北朝延文3年(1358)足利尊氏没して足利義詮が征夷大将軍、すなわち足利二代将軍となった。
北朝延文4年(1359)南朝の味方をしていた山名伊豆守時氏が将軍足利義詮の南都攻略に参加し、将軍からその手柄をほめられ、5年後の北朝貞治3年(1364)には正式に将軍方(北朝)に復帰し、あらためて丹後の国を与えられた。
このために山名時氏は丹波、丹後、但馬、因幡、伯耆、美作、の国を領有する大守護となった。当時山名党の所領は日本60カ国のうち、11カ国になった。世人山名一族のことを6分1殿と呼んだ。

これに引きかえ、一色党は若狭、尾張、三河、伊勢の4カ国に過ぎず、しかも丹後の領地は山名に奪われ、守護の職は解かれてやっと建部山城にしがみついてる有様であったが、一色の家柄と範光の人柄が丹後の280余城の信望をつなぎとめていたのか、将軍の権威も、山名の武力も一色氏を丹後から完全に追出してしまうことはできなかった。
長慶天皇北朝応安元年(南朝23年−1368)将軍義詮が死んで、足利義満が三代将軍になった。翌年、丹後全国の検地(土地の測量)が行われ、田地8,864町歩、保種(収穫高)12万3000余石と推定された。
北朝応安4年(南朝建徳2年−1371)山名時氏が死に、師義が丹後の守護となり、一方一色も範光が隠居して詮範(あきのり)が後をついだ。
北朝永和2年(南朝天授2年−1376)山名師義が没し、播磨守満幸が丹後守護を兼ねた。
北朝康暦元年(南朝天授5年−1379)松田貞秀が丹後守となった。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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