岩滝の歴史 −43−

室町・戦国時代(前編)S 

−一色義道(義通、式部太夫、左京太夫)−

〜其の四〜


沼田は何とかして義道に腹を切らせ、その首を土産に細川方につこうとあせっていた。
一色方の武将、大江越中守、高屋駿河守、近藤兵庫、原紀伊守、金屋伊豆守、山口弾正、荒川帯刀、赤井五郎左衛門、木村長門守、氏家大和守、杉山出羽守、垣見筑後守、白杉主税介(ちから)、横田伝太夫らは足利の残党で、戦場に馴れた勇将で、よく部下を指揮して持場を守った。
一万騎を超える細川、明智の大軍も、中山城一つをもてあまし、攻撃に3ヶ月をついやしたが攻め落とすことが出来なかった。そこで松井佐渡守は城内に密使をおくり、沼田幸兵衛の持場に火をつけさせ混乱に乗じて夜襲した。
一色義道は、一旦城から切り抜け、川原に逃げたが、到底再起の見込みがないと思ったのか、秋草のかげで自害した。この合戦で主従三十八騎が討死している。
この時、義道の子義俊は、よりすぐった百人余の若武者と大船山(舞鶴市、四所)の峠にかくれていた。機を見て細川軍の後方から襲う計画であった。
義俊は父の自害をきくと、じだんだふんで口惜しかった。「いいかひ(甲斐)なき父の有様なるかな、たとい沼田の悪心にて落城に及びぬとも一方を切抜け奥郡へ引取る事はなかりなんをやみやみ切腹に及ばれける残念さよ。」父の無駄死に憤激した義俊は、精兵を引きつれ、大船山の峠からまつしぐらにかけ下りると、そのまま細川勢に突入した。その時細川勢の正面から「若殿を討たすな」と大江越中守をはじめ、一色の諸将が一団となってうって出たので、流石の細川勢もさんざんにうち破られて八田をさして引退いた。
細川勢を打ち破った義俊は、討ち取った敵の首百九十余りを槍に結び大雲川(由良川)を渡って与謝郡に入り、弓木の稲富伊賀守の城に立てこもった。
忠興兄弟も、義俊らの見事な引き揚げぶりに感心し、追討をかけずに見送った。
しかし、この一戦で宮津から南は完全に細川の手に落ちてしまった。そして10月、細川藤孝、忠興父子は安土城に織田信長を訪れ、この戦果を報告した。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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