岩滝の歴史 −27−

室町・戦国時代(前編)C 

−明徳の乱−


北朝の明徳2年(詮範父子が吉原城にこもってから3年目)丹後の守護山名満幸が北朝の天子後円融の御料地を掠めとった。将軍義満は怒って、満幸の丹後守護を罷めさせ、都から追放した。危機を感じた満幸は叔父の山名陸奥守氏高をそそのかし、和泉、丹波、丹後、但馬の軍勢を集めて、淀と梅津から京都を襲う計画をたてた。

この陰謀を知った詮範、満範父子は急を将軍に知らせるとともに、敵を都に誘いこんで討ちとる計画を立て、12月31日、赤松、佐々木、畠山、細川ら諸将と相はかって、まず氏清を迎え討ち、その首を斬った。

詮範父子が山名氏清の首を将軍義満に御覧に入れたのは、翌日、すなわち明徳3年正月元旦の朝であった。将軍は、山名満幸の所領を取り上げ、手柄のあった諸将に分け与えた。一色満範を再び丹後の守護に任じ、父詮範には若狭の今富をさずけた。時に北朝明徳3年正月4日(1392)。南北両朝が和解し、御小松天皇が即位されたのもこの年である。

戦いに敗れた山名満幸は、のがれて竹野郡木津の庄(網野町)細陰(ほそかげ)の城にたどりついたが、土地の者は誰1人として見向くものはなく、かえって、隙をうかがって彼を討ちとろうと、ひそかに申し合わせているようすにいたたまらず、満幸主従12、3騎は夜にまぎれて伯耆の国に落ちていった。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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