岩滝の歴史 −28−

室町・戦国時代(前編)D 

−一色満範(修理太夫、道範、慈光寺殿)−


満範は、丹後の守護となると、吉原山城には家臣の近藤、遠藤の両将を置き、奥丹後の支配を代理させ、自分はただちに八田の館に帰った。一色家は相伴衆で、毎年正月、将軍が椀飯(わんぱん)の大饗という儀式を行う時その式に参列することのできる家柄であり、義満が室町に幕府を開いてからも、斯波、畠山、細川の三管領に次ぐ重い格式で、赤松、山名、京極、六角、下細川と並んで九家の一つであった。また幕府の侍所(さむらいどころ)の所司(長官)をつとめたのは、赤松、山名、京極、一色の四氏で、これを四職といい幕府ではもっとも重要な役目であった。 満範は八田にかえると、父祖2代で築いた建部山城によって丹後を固める足場とした。また、父一色詮範は所領の若狭の今富には行かず、和泉式部ば祈願をこめたという吉原山頂の山祇社(やまずみのやしろ)の境内(人呼(ひとよ)びの嶺(みね)=中郡峰山町)を本丸と定め、本格的な築城を始め、北の守りを固めた。

明徳4年5月(1393)将軍義満が文珠堂に参詣した。
一色満範は文殊の竜穴(りゅうげつ)の山上に小さな亭舎(休憩所)をつくり、京都から将軍をお伴をしてこの亭舎に案内した。将軍はそこから見おろす天橋立と与謝の海の絶景に感激し、この亭舎に「玄妙」の名を贈った。これが「玄妙庵」の起源である。将軍は全く上機嫌で、丹後と若狭の一色領を巡視して京都へ帰った。

翌年年号が応永と改まり、足利義勝(義持)が4代将軍となった。
応永2年9月(1395)将軍義勝が文珠堂に参詣した。
一色満範は将軍を例の「玄妙亭」に迎え、再び将軍を案内して丹後、若狭を巡回した。
応永4年(1397)、足利義満が京都北山に金閣寺を建てた。
応永9年5月(1402)将軍義勝と義満が一緒に文珠堂に参詣した。
満範は父詮範夫妻とともに将軍の案内をして大変喜ばれた。
この頃が丹後一色党の全盛時代、黄金時代であったといえるであろう。
応永13年(1406)詮範没し、間もなく三河の一色領をあずかっていた小笠原明鎮(みょうちん)父子が叛いたので、満範は二人を京都の邸につれかえり、さらに与謝郡石川山城(野田川町)におしこめた。
応永16年正月(1409)満範没し、法号を慈光寺(じこうじ)殿という。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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