岩滝の歴史 −29−

室町・戦国時代(前編)E 

−一色持範(式部少輔、北野一色、義清)−

−一色義範(兵部少輔、義貫、安養寺殿)−

−一色持長(八郎)−           −一色教親−


応永6年(1399)正月、父満範が死ぬると、兄の持範は吉原城にこもって、八田(もと加佐郡、現舞鶴市)にいた弟の義範と父の遺領を争った。丹後の諸将や領民はどちらに味方すべきかに迷った。 その3月、後難をおそれた義範は、石川山城(与謝郡野田川町)にとじこめていた三河の陣代小笠原父子に切腹を命じた。
応永18年(1411)兄弟は仲直りして、兄持範は京都の北野に第(だい、邸宅)をつくって住み、名を義清と改めた。これを北野一色といった。
弟義範も、この年、幕府の侍所の別当(長官)となって八田から室町の邸に移り、名を義貫と改めた。
兄持範が三河、伊勢の守護となり、丹後を義範が領したとも、また丹後、三河、若狭を二人で分けあったともいい、或は丹後の東半分を義範がとって八田に陣代(代理)を置き、持範が相変わらず吉原山城(峰山町)に近藤、遠藤の二臣を陣代にとどめて奥三郡(中、竹野、熊野郡)を支配させたとも伝えられている。
永享10年(1438)7月一色義範(義貫)は幕府の命によって大和の三河の大僧正義昭を討伐したが、翌々永享12年(1440)5月、幕府にそむいたため、大和の陣で武田大膳太夫信賢に討たれた。
武田信賢は余勢に乗じて、若狭の一色領を奪い、更に丹後に押し寄せて来たが、吉原城にいた持範の子、八郎持長は、陣代の近藤、遠藤を激励してよく防戦した。八田に立てこもっていた義範の家臣、領民また心を合せて持長の指図に従って戦い、武田勢はついに丹後に入ることを得ずして退却した。

嘉吉3年(1443)丹後は大水にみまわれた。これを「嘉吉の洪水」といい各所に大きな被害が出た。加佐郡八田(舞鶴市)一帯は泥水に没する惨状で、時の守護一色義範は農民の難儀をみかね、丹後の一国の年貢を免じて領民を救った。
しかし、義範は3年前、幕府の命を受けて討伐に向った武田信賢のために大和で討死しているので話があわない。これは義範のやったことでなく、或いは吉原山城にいた一色持長の計らいであったかも知れない。
義範の弟持範の子教親が丹後の守護になったのは文安2年(1445)で八代将軍義成(義政)の時である。
義範の弟持範の弟持信は歌人で、後花園天皇の命で飛鳥井雅世等と共に「親続古今集和歌集」をつくった。将軍義政はその功にむくいるため、兄義範の謀反の罪にもかかわらず、持信の子教親に丹後の所領安堵と特別の計(はかいらい)をした。
教信は文安4年(1447)に侍所の長官になったが、2年後の宝徳元年(1449)に世を去り、同2年正月、義範反逆の罪は時とともに忘れられて、義範(義貫)の子義直に丹後の国十万三千四百余石が与えられた。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


戻る