岩滝の歴史 −31−

室町・戦国時代(前編)G 

−応仁の乱と丹後(前半)−


将軍義政には子がなかったので浄土門跡になっていた弟を還俗させて養子とし、義視(よしみ)と名のらせ、将軍の職をゆずることを約束した。
義視の後見役(執事)を細川勝元に申しつけた。人々は義視のことを今出川殿と呼んでいたがその後間もなく将軍の奥方富子に義尚が産まれた。
富子は実子義尚を将軍にするために山名宗全に後見を依頼した。
細川、山名の両家は養子問題で不和となっていたが、畠山、斯波の両家の間も将軍家と同様、養子と実子の問題で紛糾(ふんきゅう)していた。これが細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)の両陣営に諸将が加担して三十万の大軍が都中で戦う原因となった。後土御門天皇の応仁元年(1467)早春から始ったので世に「応仁の乱」といわれている。

一色義直の妻は山名宗全持豊の孫娘であった。義直は早速、丹後、伊勢の兵を引きつれて山名の西軍に味方しその5月から戦闘に参加した。 応仁元年9月、西軍が破れ、一色義直勢は総くずれとなって丹後に逃げようとしたが、敵に退路をふさがれて帰ることができなかった。しかしその翌10月にはかえって細川勢を鳥羽に破った。
応神3年、改って文明元年(1469)となった。将軍義政は一色義直の領地を取り上げて、細川に味方する若州(じゃくしゅう)の武田信賢に与え、大和の陣の後、一色義範から奪った若州の一色領も、正式に彼の所領として認められた。

 

武田信賢は直ちに丹後に攻め入り、八田の館をおとしいれ、余勢をかって奥丹後へ進もうとしたが、但馬から来た山名の援軍と合した一色義直は、武田方を普甲峠でうち破った。
文明3年(1471)6月、武田信賢が病死し、丹後の守護は一時なくなった。
一色義直は、丹後の守護の位を取り上げられたけれども、なお85ヶ城に将兵を配し、依然として丹後にゆるぎない勢力をもっていた。
丹後一色党は八田に拠って口丹後を固めていたけれども、党主義直自身は殆んど京都の戦場にいた。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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