岩滝の歴史 −32−

室町・戦国時代(前編)H 

−応仁の乱と丹後(後半)−


文明5年9月、武田信賢の遺臣で、高浜の城主逸見(へんみ)駿河守はその隙に乗じて丹後に侵入し、加佐郡市場城の香川馬之助をたおして八田にながれ込んできた。
しかし、義直の弟、吉原四郎義清(義遠)は遠く吉原城(中郡峰山町)から駆けつけ、逸見勢をうち破った。
逸見はついに一色に降り、かえって設楽(しらく)の城主としてとどまったといわれている。
この年、将軍義政の後を承けて足利義尚が九代将軍となった。
それから4年目、文明9年(1477)一色義直の三河領の守護代東条国氏(くにうじ)が反したので、吉原四郎義清は子の左京太夫義有(よしあり)を伴って出陣し、国氏を追い出し、義有を三河にとどめて引き返した。

文明9年(1477)応仁元年以来11ヶ年にわたった「応仁の乱」も1勝1敗の中に、細川勝元、山名宗全の東西の両将が相ついで病死し、その他の諸将も戦いに飽いて故郷に帰る者多く、自然消滅の形で終った。
この戦で、一色義直は一人息子の義春を討死させた。しかし、義春は討死ではなく、7年後病弱のため22才の若さで死んだとも伝えられている。
11ヶ月にも亘る戦乱のため、都の大半が焼野が原となり、朝廷の暮しむきは不自由であり、御所の築地はくずれて野犬の出入りにまかせ、軒は傾き、ぺんぺん草がおい茂るといった有様であった。公卿たちの生活は目もあてられず、まして庶民の暮しは悲惨であった。

贅沢のために使われた幕府の赤字財政の穴埋めのために重税になやまされ、都には貧民あふれ、縁者をたよって地方へ下って行く者があらわれ、都はすっかりさびれてしまった。
その反面、「応仁の乱」が終って国中がホッとした気持になったことも事実であろう。
一色氏にとっては、将軍家と仲直りができたばかりでなく、文明11年8月(1479)には再び丹後の守護に任じられ、伊勢の国さえ与えられ、同15年(1483)5月には四位の下に任官している。
長享元年(1487)将軍義尚が近江の六角高瀬を討伐したときには、弟義遠(吉原四郎)と共に参加して軍功を立てた。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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