岩滝の歴史 −44−

室町・戦国時代(後編)@ 

−弓木の城−


義俊の立てこもった弓木城は、猫の額ほどの狭い小城であるが、前は阿蘇の海に望み、後に大内峠のそびえる天嶮で、大軍をもって一挙に攻め落とすことはできなかったし、無理をすると却って味方の犠牲を多くすることは明らかであった。
そのことは、細川も明智もよく承知していた。
そこで藤孝は光秀のはかりごとに従い、松井有吉を使者として、自分の娘を義俊の嫁にやり、義俊と和睦して、細川と一色とで丹後の国を車の両輪の如くに治めようと約束した。
義俊と結婚した藤孝の娘は名をイヤまたは菊の方といい、忠興、興元の妹であった。時に天正9年5月(1581)のことで、これから丹後八十五ヶ城の将士は田辺と弓木に日勤することになり、丹後はしばらく戦火の苦しみから解放された。
明智光秀が構築していた宮津城は、容易に捗らなかった。忠興と興元兄弟は八田の東の方田辺(舞鶴市)に館を築いて、そこに移り、上宮津の猪ノ岡八幡には父の藤孝が止まっていたようである。しかし一説には、藤孝父子は加佐郡大内山に移り、八田に城を築いた。これが天正12年(1584)に完成して、八田村を田辺と改めたといわれ、八田と田辺については緒論があり結論は出ていない。

丹後の平和は長くは続かなかった。細川が娘を義俊に嫁がせたのは政略のためであり、一色方としても、細川、明智は勿論、その背後にある織田信長に屈することをいさぎよしとは思っていなかった。信長は足利の天下を奪った張本人で、細川、明智はその手先であるという憎しみが一色氏にはあった。
また、明智光秀は細川忠興のしゅうとである。主君信長のためというよりは、先づ娘婿忠興のために丹後を手に入れてやりたいと思うのも人情である。
こうした空気の中にあって結婚以来一度も細川方に顔を出していない義俊の態度は細川方に最もよい口実を与えた。こうして義俊誘殺の計画はひそかに進められていった。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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