岩滝の歴史 −53−

室町・戦国時代(後編)I 

−菊の方の最後−前編


弓木城が天正10年5月28日に落ちた。その年の10月1日のことである。
落城後府中(宮津市)中村荘にかくれて、亡き夫義俊の冥福を弔っていた菊の方は、この上、生きる望みもないので嶺山(峰山)城の兄興元に会って、後々のことを頼んでおいて自殺しようと、王落峠(大内峠)の難所を越えて、大野の里(中郡大宮町)まで来た。大野の里はすっかり暮れて、野辺の秋草には、しっとりと露がおりていた。ふと歩を止めた彼女は袖の露を払いながら涙ぐんだ。

「世のうさは大野の里のしのぶ草
       しのぶにぬるる袖ぞかなしき」

歌に心をなぐさめていた彼女は、一夜を人家の軒かげで明かし、翌朝、嶺山にたどりつき、大手の木戸をたたいて兄興元に会いに来たことを告げた。あいにく、その日興元は留守であった。留守居役の志水伯耆守は驚いて老臣沢田出羽守に相談し、たとえ、幽斉の娘であっても、一たん、敵将義俊に嫁した菊の方を無断で城内に入れたため、後日忠興の機嫌を損じては大変であると、不在を幸い、木戸の外から追い返してしまった。菊の方は仕方なく、泣く泣く引き返し、楠田掃部頭落城の跡である長尾村(長岡、中郡峰山町)まで来て自殺した。 間もなく帰城した興元は訪れた妹が追い返されたことを聞くと、早速後を追ったがすでに遅かった。興元は在所の者に命じて妹の遺体をだび(火葬)にし、塚を築き、妹の名にちなんで「菊の岡」と名付けた。
その後、菊の方の年忘の際、忠興、興元兄弟は、在所の人たちを呼び出し、謝礼のしるしに米を与えたが、在所の者が「当て火の者が参りました」といって出頭したので、この在所を「当火(あてび)」と呼ぶようになった。また、火葬した土地を「葬の岡」といい、菊の方の自殺した所を姫御前(ひめごぜ)村と呼んでいる。(つづく)

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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