岩滝の歴史 −55−

室町・戦国時代(後編)K 

−細川藤孝−

(与一郎、従四位下侍従、兵部大輔、従二位、玄旨法印幽斉)


細川藤孝は、一色氏と同じく清和天皇を祖とする足利源氏の一族で、播磨守元常の子であるともいわれている。しかし、父は足利十二代将軍義晴で、母は将軍の外室、少納言信賢の娘であるともいわれている。
藤孝はすぐれた歌人でもあり、また朝廷の儀式などに精通した博学の人である反面、智将として、武将としてもすぐれ、また政治家としても偉大な人物であったことは、戦乱の世を生き抜き、更に織田、豊臣、徳川につかえ、その家は、今日も尚続き細川家の基礎をつくったその手腕には驚くほかはない。
天正10年、織田信長本能寺の変に倒れ、この年一色氏も滅亡した。
この頃から、田辺の館(舞鶴市)を拡張して築城が始り、11月の末には本丸が建ち、それから2年後の天正12年(1584)に二の丸、三の丸が大体完成し、もとの館は二の丸の一部分となって忠興がここに住み、父幽斉は上宮津の猪ノ岡山の麓に花畠をつくって自然に親しみ、宮津の館には、田辺から重臣が交替で出張しこの近郷を支配した。
 

 

幽斉の邸は、下宮津の市場の館で、石井五郎左衛門が同居していたといい、邸は明治維新の頃の宮津士族伊従氏の屋敷で庭前に大松が残っていたと伝えられている。
当時の丹後の模様について「丹州三家物語」は、永禄、元亀(1558〜1572)十三代将軍義輝、十四代将軍義栄、十五代将軍義昭のころから、丹後はことに騒々しくなり、天正(1573〜1591)信長、秀吉の頃は丹後全体を三十六人の地侍が分け取りし、海岸地方を所有する地侍は海賊を常習にして近海を通る御用船を襲攻して積荷を奪い、思い思いに砦を築いて自分から城主を名のっていた。
天正9年、細川父子が入国し、10年に丹後五郡を平定し、降人は分に従い、すべて家臣として待遇した。しかし、諸々の砦は全部破壊し、宮津と田辺を根城とし、その外、四ヶ所に築城し、宮津城には忠興、田辺城には藤孝(隠居)、吉原山城に細川玄蕃興元(次男)、久美の城は松井佐渡守、中山城に有吉将監(四郎右衛門)、河手(河守)には地侍の上京徳寿軒を置いて丹波方面の押えとした。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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