岩滝の歴史 −56−

室町・戦国時代(後編)L 

−封域分数貢税誌−


将軍足利義満は、日本の国の大小、広さ、等級(上下)、方角、米高、名産などの記録である「封域分数貢税誌」を書かせた。
ある時、幽斉は次男の興元を呼んで「この書物(封域分数貢税誌)は先祖から伝えられたものであるが、今でもその当時と比べて国内の様子は少しも変っていない・・・」といいながら、抜粋して与えた。
丹後は、もと丹波の国であった。日本で神社を建てたのは丹後が初である。今でも与謝郡にその遺跡である社がある。その上詩歌によむことのできる名高い山や、景色のよい水辺も少なくない。

風土記にいうには、丹後の国与謝の郡の東北に速石の里があって、里の中程に、長くて大きな洲崎(すざき)がある。長さは二千二百二十九丈、広さは九丈二尺、これを天の橋立と名付けている。これは陰陽の二神(いざなぎ、いざなみ)が、天浮橋(あめのうきはし)の上にお立ちになったということから、この名ができたのである。また久志浜(くしはま)とも、久志の渡(くしのと)ともいう。
元明天皇の和銅6年4月、丹波の五郡を割いて丹後を置いたが、丹後の「後」は北という意味である。方位による道程が東西は2日、南北が1日半。入江が海と交差して、大きな魚(鯨)が住み、平地は少く山岳は多く、草木はたけ高く茂っていて、木材や薪を取るに苦労はない。

山と河は都合よく配置され、田園をうるおし、水旱による凶年心配はない。耕土は厚く、地味は肥え、五穀はよくみのり、蚕繭を生産して、絹紬(きぬつむぎ)などの立派な絹織物ができる。また、紙、麻、綿、帛(きぬ)もつくり出している。この織物を精好(せいご)と呼んでいるが、国中の需要をみたすに十分である。
田地は八千八百六十五町歩、その収穫高は十二万三千余石、納米(実貢税得)は七、八万石である。
「封域分数貢税誌」の抜粋には丹後の模様をこのように伝えている。
しかし、天正8年(1580)幽斉が行ったという丹後検地の結果は十一万七百石とあって、十二万三千石と比し一万二千三百石減となっている。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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