岩滝の歴史 −57−

室町・戦国時代(後編)M 

−細川の処世術−


織田信長が本能寺で薨(みかま)れると細川藤孝は髪を落し、玄旨法印幽斉と改め、心から信長の死をいたみ、明智光秀の誘いをことわり、忠興は光秀の娘玉子と結婚し子供もあったが、妻子を野間の味土野(竹野郡弥栄町)に閉じ込めた。その上、幽斉父子は羽柴秀吉の味方をして光秀追討の準備にかかった。
天正13年、羽柴秀吉は「豊臣」の姓を賜り、関白の位についた。
細川幽斉は従二位法印に、忠興は四位の侍従となり、秀吉の斡施によって妻子を味土野から田辺(舞鶴市)によびもどした。

後陽成天皇の天正15年(1587)細川幽斉は秀吉の九州征伐に参加し恩賞として大隅の国(鹿児島県)に隠居料として三千石を与えられた。
秀吉が朝鮮に出兵したときに、奉行浅野長政から、若狭国(福井県)小浜の豪商組屋(くみや)に朝鮮出兵の兵糧米として、丹後の宮津から米三千石と、大豆千石を、九州名護屋まで輸送せよという命令がきた。運搬には、七、八百石積みの船が使われた。(読売新聞・日本の歴史)

慶長2年(1597)二度目の朝鮮出陣に際しては細川勢も参加した。
慶長3年(1598)秀吉が病没すると、細川忠興は急に徳川家康に近づいていった。
慶長5年(1600)奥州合津の上杉景勝が徳川家康に反旗をひるがえした。
忠興は、長男忠隆、弟興元と共に丹後の兵をひきつれて、6月27日、上杉討伐の先陣に立った。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


戻る