岩滝の歴史 −58−

室町・戦国時代(後編)N 

−ガラシャ夫人の最後−


石田三成を中心とする豊臣方は、徳川家康に従って関東に下った諸将の妻子を人質として大阪城にかくまった。殊に、家康と親しくして豊臣家を疎略にする細川忠興の本心を確かめるために、忠興の妻子をまっ先に大阪城に引きとることをきめた。忠興の邸は玉造で大阪城のすぐ近くにあった。
慶長5年7月9日、三成はこの方針に基いて、忠興の留守宅に再三使者を派遣して玉子の入城を促した。玉子に応じる様子が見えないので、17日の夕方、数百人の軍兵を出して忠興の邸を包囲した。

忠興の妻玉子(ガラシャ夫人)は夫の固い決意を見抜いていたので、この屋敷にいた忠隆の妻を先づ落ちのびさせ、十歳になる男の子と、八歳になった女の子を膝元に呼び、武家に生れた者の覚悟を教え、「これも祖父光秀が、主君信長公を殺した天罰であるから、決して母を恨むではない・・・」と、いうより早く二子を刺し殺し、家に火を放って自分も自害した。年三十八歳。侍女もことごとく火中に入って主人に殉じた。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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