岩滝の歴史 −61−

室町・戦国時代(後編)Q 

−丹後の地頭−


亀山天皇の文永7年(1270)に足利泰氏(一色氏の祖)が丹後の守護となってから、丹後は朝廷から任命された国司と、幕府から任命された守護の二重支配を受けることとなった。
その後、武田、山名氏が守護職に就いたことがあるが丹後の守護職は大体一色氏で占められていた。
地方を支配したのは守護、地頭であったが「泣く子と地頭には勝てぬ」といわれた程、庶民と地頭のつながりは密接であった。
それでは、丹後の地頭はどんなところに配置されていたのか。そして我が岩滝を治めていた地頭は誰で、何処に居たのか。
「和名抄」に、東鑑、建久6年(1195)条、丹後伊称(伊根)保、地頭後藤基清、伊称荘又見田数目録とあり、伊根は日置郷にて、此郷の地域にあらざるは明なるも、其の他の村里は異変なきが如く即ち今府中村、岩滝町の地域なり。とあって、後鳥羽天皇の時代、源頼朝が幕府を鎌倉に開いた頃の岩滝に関係があった地頭は後藤基清のようである。
「田数帳」に、吉原庄(峰山)の地頭吉原殿(吉原四郎義清、すなわち一色義直の弟、一色義遠)の記述がある。
一色範光の持城は二百八十二カ城であった。これを丹後五郡にあてはめると殆どの部落に城があったことになる。しかるに吉原(峰山)城主吉原殿だけに地頭の名が見えるのはどういうわけだろう。
弓木城主稲富氏は「大なる城主」(御檀家帳)であったが地頭ではなかったのか。
岩滝にはこの他に、岩滝、いたなみ(男山)にも城があったが、これらの城主も地頭であったのだろうか。前述したように丹後には八十二カ城あったが八十二人の地頭がいたものか、或はそのうち何人かが、地頭であったものか。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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