岩滝の歴史 −45−

室町・戦国時代(後編)A 

−一色義俊の誘殺  (2月22日説)その壱−


一色氏の菩提寺であると伝えられている上宮津盛林寺には「一色満信(義俊)9月8日」という位牌が祀ってある。
一色義俊の誘殺された時と場所については異説がある。一色氏の滅亡の様子は戦国時代の姿であり、郷土もまた時代の影響を受けずにはいられなかった。

 

(2月22日説)
天正9年5月(1581)細川藤孝の娘菊の方が、弓木城の一色五郎義俊にとついでその翌年、すなわち天正10年正月10日(1582)のことであった。舅藤孝の使者として家臣の米田与七郎が藤孝の孫忠隆(忠興の子)のお伴をして弓木城に来た。
米田は年賀の挨拶を述べてから「主人の申しますには、歳の故か、この頃は寒さが殊の外身にしみるようになった。こんなことでは行く末が心元ない。老いの身のただ一つの願いは是非ともあなたを田辺へお迎えして、親子の杯を交わし、倅の忠興、興元と兄弟の交わりを結び、年よりを安心させていただきたい・・・」と藤孝の意を伝えた。使者を待たせておいて奥へ入った義俊は、早速謀将の大江、杉山の両人を呼んで相談した。相手の意中を測りかねた大江越中守は婿入りに反対したが、杉山出羽守は、このまま自滅の途をたどるよりもかえって、この機会に藤孝父子に近づき、二人を討ち取るべきだと主張した。義俊も杉山の説に従い、吉日をえらんで登城する旨を答え忠隆主従をもてなした。
正月23日、弓木城から味方の諸城に回状が飛んだ。急を知って与謝、奥丹後から駆けつけた諸将九十騎。この人々は弓木に分宿して、思い思いに武器や兵具の準備にかかった。加佐、与謝、中、竹野、熊野の各郡から八十六人の諸将が弓木城に集ったが、その中に岩滝城主千賀常陸守、男山城主高岡出羽守もいた。
この噂をきいた細川藤孝は大いに驚き、早速、上杉、村上の両名を弓木城におくり「老人こと、近頃とみに余寒の病みがつのり、お客ごともできかねる有様、こちらから日取をお知らせするまで、婿入りはおのばし下さるよう・・・」と申し入れた。これを聞いた一色方は、秘密のもれたことを知って当惑した。殊に突然やって来た二人の使者は、城内はもとより、城下−弓木村の様子もすっかり見抜いたにちがいない。こうした手違いが急に一同を臆病にした。中には細川方の思惑を心配して、こそこそ持城に引きあげるものもでき、不安の色が深まっている折も折、明智、細川、一色三氏に宛てた将軍信長の招集状が細川の手を経て届けられた。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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