岩滝の歴史 −46−

室町・戦国時代(後編)B 

−一色義俊の誘殺  (2月22日説)その弐−


  (2月22日説)つづき

明智、長岡(細川)、一色の三家は、今もって不和のよし、上聞に達した。よって三人の者、連れ立って至急出頭せよ。もし背く者あらば、大軍を差し向けて討ち滅すであろう。
義俊は、最早、考える余地のないことをさとった。上京すれば、まだ一度も婿入りしない自分の非を口実に、切腹を命じるにちがいない。上京してもしなくとも結果は同じことである。信長の招きを幸い、田辺に乗り込んで細川親子に近づき、亡父義道の恨みを晴した上で切腹し、一色の最後を飾るのが残されたただ一つの道であると考えた。

この義俊に対し、大江、杉山の諸将は評定の結果、「もし我が君に一大事あれば、三郡の諸将はいよいよ心を一にし、吉原越前守を大将に迎えて討手を引きうけ、潔く討死して名を後の世に残しましょう」と答えた。義俊は涙を流して喜び、早速、田辺の細川に使者を送った。
「都からの回状のおもむき承知しました。明22日、田辺まで出向きますから、同道の御用意下さい」翌22日午前6時、諸将と袂別した義俊は、石川左衛門秀門、金谷半左衛門、一色宗衛門範国の外、若手の中から百五十余人をすぐって小船5隻、岩滝の浜から乗船した。
二番手は荒須帯刀(中郡大宮町周枳)の率いる二百七十余人。三番手は高屋駿河守父子(竹野郡、網野町下岡)、松田摂津守(竹野郡、弥栄町黒部)を将とする四百余人が、夜に入って兵船を漕ぎ出す手はずであった。
義俊主従は、途中で佐方吉衛門、麻野吉衛門らの出迎えを受け、夕暮近く田辺城の本丸に到達し、佐方の案内でまづ、一風呂浴び、早速膳をすすめられたので、藤孝父子に会って上洛の打合せをするいとまもなく、不気味な中に夜が更けていった。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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