岩滝の歴史 −47−

室町・戦国時代(後編)C 

−一色義俊の誘殺  (2月22日説)その参−


  (2月22日説)つづき

別室では、お供の若侍らがすっかり気を許して興じていた。石川、金谷はこれをみとがめ「いくらおめでたいとはいえ大切な供先で大酒を呑むとは何事だ。きっと慎しみなされよ」とたしなめた。これを物陰で聞いていた藤孝父子は麻野に何か耳打ちして寝床の用意をさせ、沼田勘解由(幸兵衛)に寝酒の支度を申しつけた。
沼田は早速、盃を用意して座敷へ出たが、これを見た石川、金屋の二人は口をそろえて、中山城以来の不忠不義をののしり、「沼田幸兵衛、義俊殿の御目通り御叶い申さず」と呼んだ。
沼田は皮肉に笑い返し「主君に腹を切らせたこの不忠者があればこそ、将軍信長公のお憎しみにもかかわらず、細川家と和睦が叶い、婿となって、丹後を両家で治められたものを、足利の残党をかくまい、細川家にたてついて、将軍家のご機嫌を損じたのは、みんなお前共忠義顔の指図であろう。ええい、こちらこそ口惜しいぞッ」といい終らず抜打ちに石川の右肩を斬った。石川は深手ながら抜き合せたが、遂に沼田の二の太刀に切り伏せられた。

「やあ、義俊殿の御一大事ぞッ。お側にまいらせよッ」
一色宗左衛門と金谷の悲痛な叫びに、酔いつぶれていた若侍どもは、刀をとって立ち上ったが、眼はかすみ、足はしびれて、物の役に立たない中に、部屋部屋の明りが一度に吹き消された。あっとためらうまに、黒覆面の三人の武士が、手槍をしごいて義俊に迫り、見るまに金谷、芦屋、金沢ら主従四人を突き伏せてしまった。この三人こそ細川忠興、興元、有吉将監であった。
死斗の末危うく切り抜けた一色方の若侍十五、六人が由良川の裾までたどりついた時、由良の河口近く兵船をとどめ、山々に遠見の者を出して、田辺城からの合図を待ちわびていたのは荒須帯刀の二番隊であった。若侍から一切を聞いた荒須らは、無念の涙を押えて、ひとまず弓木城に引返した。
やがて、夜明も近い頃、弓木城でこの悲報を聞いた陣将大江、杉山らが最後の籠城について語り合っているところへ、思いがけなく一色宗左衛門がたどりついた。しかも重傷に屈せず、主君義俊の首を絹の袖に包んで背負い、敵の首二、三十ばかりを家来に持たせ、血刀を杖にかけこんで来た彼の姿に、一同思わず息を呑んだ。「浅手ながら数ヶ所の傷です。まず、御免」
宗左衛門はその場に横たわると、細川方にねがえりをうった沼田幸兵衛のたくらみなど、闇打の模様を詳しく物語り、更に
「その上、興元、松井、有吉の三手の水軍が出陣した。経ヶ岬を回る船の灯はたしかにそうだ。弓木城に寄せるのではなく、まず竹野、熊野の浦々に攻めかかり、加勢を出して、この城が手薄になるのを見すまし、正面から忠興の本隊をさし向ける計略だ。さあ、皆の方最後のお覚悟を・・・・・・」

生死の瀬戸際に立ちながら、この行き届いた報告に感激した大江、杉山の両将は、主君の首を敵に渡さなかった功績をほめたたえ、一時も早く休息して、傷の手当をするよう彼をねぎらった。
こうして大江、杉山連名の「触状(ふれじょう)」が奥三郡に飛んだ。
(一色軍記)

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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