岩滝の歴史 −48−

室町・戦国時代(後編)D 

−一色義俊の誘殺  (9月8日説)その壱−


  (9月8日説)

織田信長が明智光秀のために本能寺に倒れたのは天正10年6月2日(1582)である。
光秀は早速細川に使者を送り摂津一国を与えるといって誘ったが、藤孝父子は返事もしなかった。
藤孝は髪を剃って玄旨(げんしゅ)法印幽斉と名を改め、亡き信長に対し二心なきことを誓った。忠興は光秀の娘である妻の玉子に子供をつけて野間の奥味土野(竹野郡弥栄町)に閉じ込めてしまった。
細川忠興は直ちに羽柴秀吉に手紙を出し、光秀討伐の協力を誓い、丹後の軍勢を集めたが、出陣を待たずにその13日、光秀は、秀吉のため滅ぼされてしまった。
7月に入ってまもなく、幽斉と忠興は上京して信長の跡を弔い、秀吉に出会った。

秀吉が「細き川こそ二つ流るれ」と和歌の下の句を読んだ。
幽斉は即座に「御所車、ひき行くあとに雨降りて」
と上の句をつけたので、秀吉は大変満足して、細川父子を心からねぎらった。これで細川の丹後十一万七百石は安泰となった。
やがて、柴田、滝川征伐が始った。細川の武将米田監物は、秀吉の加勢として亀山攻めに参加し、玄蕃頭興元は志津ヶ嶽の合戦に馳せ向い、忠興は兵船を指揮して越前の国に向った。
ところが志津ヶ嶽で中川瀬兵衛の討死が、誤って秀吉軍が敗れたと丹後に伝わった。
弓木城にいてこれをきいた義俊は、この機会に乗じて、細川の宮津の館を奪い取ろうと、兵船を用意して犬の堂沖(宮津の西入口)まで漕ぎ出したところ、後ろから早船が追いついて、全くの誤報であることを伝えたので、一色勢はすごすごと引き返した。
まもなく越前方面の討伐を終えて、細川忠興は田辺に凱旋したが、一色義俊は凱旋祝いにも行かず引きこもっていた。そこで、幽斉は思案の末、自分から宮津の館に出向いて、婿の義俊の招待をすることにした。
造営中の宮津城はまだ完成していなかった。細川の重臣たちは交替で宮津の館に出張し、与謝郡一帯を支配し、奥三郡の一色の動静を監視していた。
宮津の館の位置について「丹後宮津誌」には、猪岡山の麓、辻町附近であったといい、また一説によると後に鶴賀城三の丸が建てられていた場所であったとも伝えられている。しかし、年代や、当時の模様から考え合わせると、やはり辻町附近が正しいようであると述べ、義俊が誘殺されたのも田辺城内ではなく宮津とせざるを得ないといっている。
(つづく)

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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