岩滝の歴史 −49−

室町・戦国時代(後編)E 

−一色義俊の誘殺  (9月8日説)その弐−


  (9月8日説つづき)

当時、宮津の館の在番は有吉将監であったが、忠興、興元兄弟をはじめ、米田壱岐(いき)守宗堅、松井佐渡守康之らの重臣が一族郎党を引き連れて出張(でば)り誘殺の計画を立てていた。
「幽斉、老衰に及び、余命の程も分りませぬ、婿と舅になったからには、命のある間に親子の対面を致し、この老人を喜ばせていただきたく・・・」幽斉はこういって義俊を案内した。
天正10年9月8日(1582)騎士三十六人、雑兵三百余人を従えて宮津に着いた義俊は、雑兵を城外に待たせ、侍どもを広間に残して書院に通された。
まず、忠興と義俊が向かい合い、一色家の家老の日置主殿介(へきとのものすけ)の座は忠興の右側であり後の襖一重隔てて仕手(討手)の士十七人がかくれていた。他の大勢の侍は、義俊を討ち取ると同時に、弓木城に攻めかかるため、玄蕃頭興元、松井佐渡守康之、立行是政らがひきつれて普請場のかげに待機していた。

忠興の太刀は、中島甚之允が持って出て脇に置いたが、柄の勝手が悪かったので、米田宗堅が肴を運ぶついでに、わざと袴のすそを触れ、押しいただく拍子に少し鞘走ったのを押し込んで、忠興の手勝手のよいように置きなおした。
いよいよ盃がでた。義俊が何気なく盃を押しいただいた瞬間、忠興は抜打ちに、義俊の肩先から脇腹にかけて切りつけ、返す刀で主殿介に向った。太刀は勢州信長作。三尺八寸余の業物であった。主殿介は驚いてにげ出そうとしたが、中路市之允に討ち取られた。気丈な一色義俊は、脇差を抜こうとしたが、そのままどっと縁側に倒れた。
弓木城に向かう計画については、先づ義俊の内室菊の方を取り戻すことが先決であった。そのため玄蕃興元、松井佐渡守手兵を引きつれて須津村に馬を伏せ、宮津からの合図を待っていた。菊の方は幽斉の娘であり、忠興兄弟にとっては妹である。人質をとられていては、弓木城攻撃の鉾先がにぶるからである。
この伏兵は、烽火(のろし)を合図に、弓木城にかけつけ、奥方を取り戻そうとしたが、城兵はこれを拒んで鉄砲を乱射した。奇手は死傷者続出し、退却のやむなく、弓木城を遠巻きに包囲した。
「丹州三家物語」はこの時の模様を
かの十騎余りの兵と、その仲間の地侍どもは、この烽火をみるが早いか、米田監物に従って弓木に押し寄せ、城内に向って「御内室のお迎えとして米田監物ここまで参ってござる。この上はとやかく申さず、お渡し下され」と大音にて呼ばわった。しかし城内からは一言の返事もない。城主稲富伊賀守は、天下に双ぶ者のない鉄砲の名手で、彼のねらい射つ弾に、寄手はみるみるうちに多数の死者を出した。寄手はやむを得ず野田の橋詰まで退却した。
(つづく)

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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