岩滝の歴史 −50−

室町・戦国時代(後編)F 

−一色義俊の誘殺  (9月8日説)その参−


  (9月8日説つづき)

「御内室様さえお渡し下さるならば、穏便に事すむよう、主人藤孝公の御前をうまく取りなしましょう」と再三交渉を続けている間に、一色の家臣が、菊の方を人質にして、そっと後ろの山から城を抜け出し、但馬の国をさしていった。と伝えている。
これを知った米田監物は、ただちに早馬をもってその後を追い、但馬の国の藤ノ森で追いつき、無事に菊の方を取り戻し宮津の館につれ帰った。供の侍は細川方に降り、あるいは都に走って秀吉の家臣となった。
父幽斉や兄たちのもとに帰った菊の方は、夫義俊の最後の様子を詳しく聞き、次のように述懐した。
「あの8日の卯の刻(午前6時)妾(わたし)に向って、「今日、はじめて舅の細川殿にお会いするのだが、この一色家と細川家は、先祖の代から親しい間柄で、代々将軍にお仕えして、所々で合戦のある度に、お互いに頼み頼まれて力を合せて来た仲らしく、古い手紙なども保存してあるが、今、たとえ孫子の末となったとはいえ、昔を思うと懐しいよ。そのうえ、また、こうして親子の間柄となったのも深い宿縁というものか、不思議に思えて仕方がない」と、いつもよりやさしく言って、馬鞍なども美しく飾らせて弓木を出ていかれました。

去年(天正9年)の夏の5月の頃、妾が一色殿に嫁いで参って以来、こんなに賑やかな供揃いで外出されたことはありませんので、妾も本当にうれしくて、城の窓から見送って居りますと、須津の浜辺を通り、山路にかかられたが、まだ朝霧も晴れないで、段々お姿がかすかになり、とうとう生い繁った松のかげにかくれて、もう供人さえ見えなくなったので、心残りがして、自然に涙がこみあげてくるのをジッと辛抱して、たとえ人には見せなくとも女々しいことであると思ったから、盃の用意をさせ、自分でも悲しみをまぎらせ、女房(側に仕える女)たちも慰めておりましたのに、全く意外な事が起って、お亡くなりになったことは、本当に悲しいことでございます。このような企みがあったことは、妾自身は夢にも存じませんが、義俊殿御最後の時、さぞお恨みになっていたことだろう。」
と、菊の方は毎日歎いておいでになりました。(丹州三家物語)
菊の方の悲しみをよそに、細川方の喜びは大きかった。しかし敵とはいえ、義俊は幽斉にとって娘の婿である。彼は家臣に命じて、義俊の遺骸を一色家累代の菩提所である上宮津の大円山盛林寺に送り、ねんごろに葬らせた。
法名「一色賞雲源忠大禅門」

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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