岩滝の歴史 −51−

室町・戦国時代(後編)G 

−一色義清 (吉原越前守、五郎)−


弓木城主稲富伊賀守の鉄砲は天下無双で八町以内(約1440m)であれば、百発百中の名手であった。稲富は二十五才の時、橋立明神に7日間の断食祈願を行い「盲(めくら)打ち」を会得したという。すなわち、目かくしをしても的を射ることができるという達人であった。
常に一両から八匁までの弾丸を用い、闇の中でも狐や狼の鳴き声を聞いただけでも必ず射止めたと伝えられている。
義俊の誘殺と同時に、弓木城を乗っ取ろうと考えた細川方の計画が不成功に終ったのは、この稲富伊賀守の鉄砲に妨げられ、菊の方を取り返すことができなかったのが一つの原因であった。
細川方の作戦はここで一変した。ひとまづ全軍を田辺城に引きあげ、興元、松井、有吉の三手の水軍を組織して、海上から経ヶ岬を回って、北円の海岸から上陸し、弓木の城背後にある奥丹三郡の堅城を攻め、弓木城の孤立化を計った。
弓木城には、義俊の叔父吉原越前守一色義清が主従百二十騎をつれて入城した。
大江、杉山、一色宗左衛門の三人は甥義俊の悲壮な最後を悔み歎く義清をなぐさめ、「義俊殿の最後は御覚悟の上のことです。この上はあなたのお考えを承りとうございます」と、いった。
義清は、「家運つきて城を枕に死ぬることは、いささかも心残りとは思わない。建武3年、我が先祖の尊氏公が将軍の職につかれてから、義昭公に至るまで十五代、一色の家は八代、その間242年、将軍の一族の列に加えられ、丹後の守護を賜った御恩は、我が一色一族、悉く生命を義昭公に捧げるともどうして惜しかろう。しかし、今天下は、平民である織田信長に奪われている。我々足利源氏の一統は、信長の家来となる理由はない。それを世間の者が、足利の残党などとけがらわしい名で呼ぶのが口惜しいのだ。
しかし、細川が丹後の守護に任命されてから5年間、一歩も国をゆずらず、明智、細川の連合軍と戦って勝つこと二十三度、そのため和睦もし、縁者ともなって、両家が並んで丹後を支配すること2年・・・。これが足利家に対するせめてもの御恩返し・・・。この気持ちは末代まで人々が汲み取ってくれるであろう。籠城の面々、どうかこの義清と生死を共にし、潔く討死してもらいたい」と、いった。
これをきいた城内の将兵は、あっぱれ九代の大将であると感じ合った。
義清は名を一色五郎義清と改め、義俊の形見の家宝の鎧兜をまとって戦場に出ることにした。
2月25日(一説、9月13日)大江、杉山両将は、義清の命により、早朝から弓木城にはせ集る軍士を検閲し、その名を到着順に記録させた。石川文吾秀澄が書き上げた一色党および地侍の数は八千五百余人に達した。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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