岩滝の歴史 −52−

室町・戦国時代(後編)H 

−弓木城と一色五郎義清自刃−


一色の本城弓木は正面大手口に野田川をめぐらし、対岸の倉梯山に出城を構え、江木片岡の諸城を配し、後方搦手に大内峠の天険を控え鉄砲の名手稲富伊賀守が固めて敵を一歩も近づけなかった。
寄手の総大将細川忠興は宮津に本陣をおいて、弓木攻略の指揮をとっていた。
田辺の水軍をひきいた石井五郎右衛門の一隊は、栗田の浜に上陸すると、小寺、高妻、宿野の山城をおとし入れ、9月13日、宮津の本陣に合流して弓木の正面に向った。
こうして、攻防すでに十回を越えたが、細川勢はその度毎に撃退され、合戦はいつ果てるとも分らなかった。ただ、奥丹三郡を切り崩して東上してくる興元勢を迎えて9月28日に至った。
奥三郡の諸城をおとしいれた興元勢は一色家の城代大江越中守と三重(中郡大宮町)の留守城を破って、大内峠の嶺越しに本城弓木の搦手から逆落しに攻めかかった。
この一戦で大江越中守が倒れた。杉山出羽守も戦死した。将兵の死傷は数え切れない。落城はもはや時間の問題である。たとえ叶わぬまでも、忠興の本陣に切って入り、彼に一太刀あびせて切り死にしようと、大将義清は手兵百余騎をまとめるや、正面の野田川口を打ち破り、須津峠を越え、まっしぐらに敵将忠興の本陣猪ノ岡八幡を急襲した。驚いた本陣守護の細川勢は危うく義清を宮津川(大手川)堤に食い止め、両軍の間に激しい死闘が展開した。
その時、弓木城をおとし入れた、松井、有吉の一隊が、本陣を気づかって馳け戻り、一色勢の後方に迫った。一色方は思いがけぬ挟み打ちに将兵の殆んどが討死し、五郎義清も数ヶ所に深傷を負った。義清は忠興の本陣を目前にしながら、力尽きて川岸伝に海岸を走り下宮津の漁家の木蔭に入って自刃した。
義清の自刃の地は、後の宮津鶴賀城内三の丸の北東であるといい、老木の下に碑石が建てられている。
建武2年、一色範光が足利尊氏から丹後の守護に任じられ、八田の建部山に城を築いてから247年目、すなわち、天正10年(1582)9月28日(一説5月28日)丹後の一色党は全く滅亡した。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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