奈良時代C

−板列神社と里・保−

国の下に郡がおかれ、さらに郡の下の行政単位は「里」であり、里長(りちょう)がいた。里長は50戸からなる里の租税の取りたて、その他の義務を負担させられていた。
1つの家族の関係をあらわす戸の代表者が戸主であり、戸が5つ集まって「保」をつくった。保には「保長」があり、保内の租税や治安について責任をもたされていた。

里長、保長、戸主は役人としての待遇を受けず、また役所も持っていなかったが、上部からの命令や統制はこのルートによって下部に伝えられた。
言い伝えによると、昔は波見・日置・府中(今の宮津市)から岩滝までの範囲を華浪里(はななみのさと:花浪里とも書く)と言った。また、華浪里の中に男山・岩滝・弓木等の「保」があったのではなかろうか。
昔は、どこでも地名を神社にしたが、岩滝に奉ってあった神様を華浪神社といった。ところが昔の人は皆無学であったからハナナミのあて字を板列・板並・板浪等と書いた。
醍醐天皇の延喜年間(901)に日本国中の神社の戸籍調べを行い、延喜式神名帳に「板列神社」と登録され、この時から、板列の字が使われるようになった。また、「石清水文書」「足利義詮御教書」には板浪の文字が使われている。
参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月

岩滝の歴史へ