岩滝の産業 101
ー その他の工業 ー
滅びていった工業(2)岩滝縞


天保、弘化(1830〜1847)のころ、初代広野太左衛門は、地元弓木、岩滝、加悦谷方面から岩滝縞、ちりめんを買入れ、播丹はもとより、岩滝村山家屋(山徳ー初代小室徳蔵、二代初蔵)の千石船に便乗して、陸奥、松前、隠岐、九州などへ売りさばき、生糸、綿糸、麻などを持ち帰った。そんな関係で、越後、奥州地方には「岩滝縞」の名は今も尚残っているといわれている。



岩滝縞に捺印した木判
縦5.3cm、横3.5cm
弓木広野勇太郎所有
天保時代製作
岩滝縞の製造元は十軒にも及んだ時代があったという。反元糸井元蔵、後藤清助ははっきりしている。勿論手機で、紺屋は広野太右衛門、寺島菊蔵その他であった。
毎年、四国から綿くり機を売る商人が来た。岩滝だけは特製品が売れた。
明治維新以後も、明治十年頃までは純枠の岩滝縞を製造し、各地で販売されていたので依然として声価を高めていたが、其の後、交通機関の発達、商工業の進歩から需要も増加してきたが、野田川沿岸で産する棉花の量は少く、とても時代の要求に添うことはできなかった。このため、他の地方から綿を買入れ、製造したが、粗製濫造におちいり、堅牢、不変という特色もなくなり、以前の声価を失った。
更に明治20年頃には、印度綿、米綿の大量輸入に対抗しきれず、終に「岩滝縞」の原料となった棉根(野田川沿岸の原野)の棉の栽培は絶えてしまった。


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