岩滝の産業 13
ー 農 業 ー
岩滝町と小作争議


最も純農村的色彩の強い男山地区には、徳川時代から明治にかけて160戸の農家があったが、殆んど自作農で、しかも、貧富の差が少なかった。従って地主対小作の対立がなく、小作争議はなかった。
岩滝は旧藩時代から、多数の巨船を所有し、日本海を乗り廻した山家屋一族、丹後縮緬の総元締と称せられた米屋品蔵、歴代藩の総禄を勤めた大千賀、多年大庄屋に任じた大糸井、等金持が多く此の人々が出産、結婚、初老、還暦等の年賀、慶弔毎に、二俵なり、三俵なりの田地を寄附し、村の基本財産とする慣例が二百年来続いて、終りに八十俵に達した。之を何十口かに区分し、四年を一期とし、抽せんで希望者に小作させた。中にはとても有利なものもあり、数円、数十円のプレミアム付の代作者もあった。之を総作といった。だから岩滝無二の大地主は岩滝村(後の岩滝区)であった。
年貢米は金納、此の米相場が毎年12月24日に決定され、必ず他町村よりも安値である例であった。
此の総作田は下田圃と称する岩滝、男山に至る地域にもあったが、大部分は野田と称する岩滝の人家から野田川に達する地域と、岩滝から弓木の人家裏に達する地域に多く、元京極氏の別荘跡、ダン亀池、ダンブ、お茶屋等の地名が残っていた。
岩滝区は総作のために区費を徴収する必要がなかった。
弓木は地形上、又、石田から移住した人々の集りで、田圃は殆んど岩滝か石田に属し、元弓木村の人家裏は、皆岩滝区の所有地であり、上(かみ)は「梅ノ木谷」(現在の農産物流センター附近)以南が石田分、従って弓木には小作者が殆んどなかった。
石田は、岩滝区と同様、機業が中心で、小作料については寛大で「持って来られるだけ持って来たらよい」といわれていたという。
以上のような理由で、地方に頻発した地主対小作の抗争や、小作争議は岩滝町にはほとんど見られなかった。

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