岩滝の産業 30
ー 農 業 ー
戦中戦後の米の配給(1)


太平洋戦争が激しさを加え、次第に日本の敗色が濃くなるにつれ、我国産業の重点は工業におかれた。
青壮年は軍隊に動員され、軍需工場に徴用され、日本の食料事情は日に日に苦しくなって行った。
旧制の中等学校、女学校の生徒は軍需工場で働かされ、大学生は卒業を繰上げて、いわゆる学徒動員という言葉で軍隊にとられ、戦場におくられた。
この為農業に従事する者が次第に少なくなった。一方では食料増産が叫ばれ、小学生が校庭を耕して麦や豆を作り、又河川敷、道路の斜面まで耕作し、更に荒地を開墾して食料の増産を計らねばならなかった。
こうして生産された米穀は、農家はもとより、小学校の校庭を耕作して生産されたものまで供出を命ぜられ、自由にすることは許されなかった。
昭和17年(1942)2月には「食料管理法」が制定されている。
こうした中で国民は「一般米穀通帳」が与えられ、政府の指示する量の食料を買うことができた。(この外、妊産婦、特殊の仕事に従事する者には特別配給、略して特配、加配があった。)
岩滝町民は「米穀通帳」をもって、岩滝農業会又は岩滝食料営団に行って米や麦の配給を受けた。
時期的に、又は年令で1日分1人当りの配給量に差があったが、大体成人1人1日分の配給は2合4勺であった。

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