岩滝の産業 31
ー 農 業 ー
戦中戦後の米の配給(2)


当時は最近の国民の食生活の如くパン食は殆んどなく、米を常食とし家庭によっては衛生上、健康上、或は経済事情によって米麦を混合した麦飯を食う家庭もあったが、成人は一日平均六合の米を食っていたといわれていた。中には肉体的な、而も重労働をする人は「一升飯」といわれている程多量の米を消費していたのに、戦争のために一日ニ合四勺しか与えられなかった。
それでも玄米が配給されることもあった。病人のある家では、一升瓶に米を入れ、竹でつついて糠をとり、反対に健康な人は食料の不足を補い、満腹感を得るため大根を葉ごと刻んで米に混入した。俗にいう「大根飯」や、薩摩いもを混入した「いも飯」を食べて飢をしのいだ。
敗戦後、職を失い収入の途を失った者は衣類、家具、骨董品、その他の家具、家財を売って食料とかえる、いわゆる「筍生活」を余儀なくさせられた。
反対に、戦後国民生活に必要な物を造って売り出し、多額の富を得た者、軍の隠匿物資を横流しして巨富を得た「闇成金」は、政府できめた米の公定価格、当時盛に使われた公(まるこう)以上の米を自由に且つ大量に買って食べ不自由のない生活をする者もあった。
米の公定価格はあったが、規定の配給量以上の米を配給所(岩滝農業会、岩滝食糧営団)以外で買う場合は「闇米」といって、公定価格の何倍、何十倍の金を出さなければ手に入れることはできなかった。
また、農家も政府に売渡す価格よりも、闇で「横流し」する方が高価に売れたので「供出」(政府に売渡すこと)をできるだけ少なくして闇商人に売った。殊に都会の食糧事情の苦しさにつけこんで、農村から都会へ闇米を運ぶ「かつぎ屋」が横行した。

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