岩滝の産業 48
ー 農 業 ー
養蚕の沿革(2)


製糸業については、岩滝の真名井純一、斯道の先覚として改良を唱え、一種の座繰機械を創作してこれを遠近に伝えた。
しかし、製品の出来栄えは余り優秀でなく、明治18年東京で開催された供進会における批評もまたあまりかんばしいものではなかった。
その結果、京都府は明治18年、各郡の蚕糸業代表者を福知山に招集して協議会を開催し、改良の方策を協議した。その結果「一致共同」の必要を認め、蚕糸業組合規則の発布を当局に建議した。
明治18年10月、農商務省が「蚕糸業組合準則」を発布し、京都府は翌19年3月までに各郡に組合を組織することを奨め、各郡の同業者は一郡又は数郡連合で組合を作り更に、この統一機関である「取締所」の設置を決定し、明治19年2月に認可を得て事務を開始し、蚕糸業の興隆の気運が旺んになってきた。
以上のような沿革をもつ養蚕も、今日の岩滝においては見ることのできぬ過去の産業になってしまった。
これには、養蚕の激しい労働、繭価の不安定、人造絹糸(人絹)の発明、国民の衣生活の変化(洋装が多くなった事)等、種々の理由があげられるだろうと思う。
しかし、皮肉というか、丹後縮緬の原料は養蚕の結果生産された生糸が原料として使われていることであり、この機業は、丹後縮緬の生産地岩滝としての名を高からしめ、益々旺んになる有様である。

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