岩滝の産業 84
ー 商 業 ー
商業の発達につくした人々−2−


へ.糸井元蔵、後藤清助
「岩滝縞」は古くからその名を知られ、十軒内外の製造家があったように伝えられているが、今尚その名を伝えているのは、反元(糸井元蔵)、後藤清助(克郎の先祖)等である。
彼等は自家でも製造したが、宮津藩士の微録な者の主婦の内職として織らせたものが多かった。そして、之を「縞売り」と称する行商が売り、明治中期迄は何人か残っていた。
又、山徳の大船で日本海方面の港で売っていたから、越後、奥州地方では岩滝縞の名は忘れられていない。
反元は絶家したが、後藤清助は今の克郎の祖父である。
ト.安田仙右衛門、糸井六左衛門、蒲田元吉、糸井万蔵
明治以後、生糸、縮緬問屋として有名になったものに、安田仙右衛門、糸井六左衛門、蒲田元吉、糸井万蔵等がある。
安田仙右衛門は、山上(小室佐喜蔵)の番頭として多年京都支店で勤めていた関係上、独立して問屋を創めると、岩滝の本店に長男太蔵を据え、自分は室町四条に支店を開いた。多年の経験は京都商人と競争して劣らなかった。
糸井六左衛門は、丸糸(糸井勘助)の番頭であったが、独立して糸六商店の名称で、京都三条東洞院に支店を設け、ここに長男常太郎(後に二代六左衛門)を支店長として活躍せしめた。
蒲田元吉は、小作農徳三郎の長男に生れ、父に従って農耕に従事していたが、農業の労多くして酬われることの薄いのに憤慨し、丸仙商店に入って京都商人と利益を争い、後独立して京都に店を開き、岩滝には数十機を有する製造工場を持っていた。
糸井万蔵は、カク上(小室守蔵)の番頭であったが、後独立し、主として生糸、紡糸、紬糸等原料を商い、峰山の吉村、森野、沖野、高田等の商店と取引した。

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