岩滝の産業 88
ー 商 業 ー
岩滝港と農業の関係 −3−


近世の岩滝村の性格はつぎの1、2の文書によって知られる。
「渡海船入津仕?当村ニ茂大船有之毎年三十艘斗当浜ニ冬囲仕船引場銭船引賃小宿等其外儲筋多分ニ有之或者五十河村山中江入込薪いたし糞取売木をも拵中郡竹野郡村々御年貢米津出し宿加悦谷村々御年貢河船ニ而積下し是亦賃米ケ様之以助成御皆済仕来候」(明和4年−1767−の文書)
「元来当村之儀ハ往古?塩其外何ニ不寄船手買寄場仕峯山御領分久美浜御支配所中郡村々当村江津出し仕候ニ付右人足帰リ荷物ニ買取候」(寛政2年−1790−の文書)
すなわち五十河村より薪木伐出しという関係もあるが、岩滝は中郡竹野郡など奥丹後村々の年貢米の津出し港として、またその関係における物資の輸入港として生命をもっていたことが知られる。
とくに宮津藩が田辺(舞鶴)藩から分離しない時分(分離は寛永2年)の岩滝についてはそうした奥村をヒンターランドとする港津たる性格が強かったことは、「当国一円田辺御領分之節ハ当村ニ御年貢米納蔵有之当湊より諸国江御廻米ニ相成大船入津仕諸品諸荷物売買仕大船冬囲仕候」といわれ、また「宮津御城無之以前ハ当村ニ御米蔵有之今ニ字大蔵と申候而百姓居屋敷?田畑相成居申候」といわれていることによってもうかがえる(寛永6年10月「御尋ニ付奉申上当浜之次第」岩滝区有文書)。また「70年以前」(同上文書、享保9,10年ごろに当る)には岩滝丸、万徳丸などという大船が岩滝にあり、「30ケ年以前迄ハ二百石三百石迄之船出入込当浜ニ而船積仕候」ともいわれている(同上文書)。右のように、岩滝村は湊としての機能を備えることによって奥丹地方に対する一中心地となっていた様子がわかろう。

前へ 目次 次へ