岩滝の産業 89
ー 商 業 ー
岩滝港と農業の関係 −4−


さきに慶長7年の検地帳による岩滝村の田畑反別をあげたが、この元高653石8斗4升に対して、阿部対馬守御代天和元年(1681)に延高507石7斗4升2合を加えられ、反別51町8反余で、村高1161石5斗8升余とされている(寛政2年「指出帳」また明和4年11月「仮免起之帳」いずれも岩滝区有文書)。いうまでもなく延高は無地高であって、新田の開発もあまり多くみられない状況の下では(寛政2年指出帳によれば同年現在で新田高は合計52石6斗2升4合、反別合計6町4畝28歩)、このような延高によって村高が倍増されることは極端に圧迫にならざるをえなかった。この増延高によって明和ごろでは「村方及困窮御百姓潰門(ママ)致出来、無主高村地ニ相成乍難儀立百姓割作ニ仕候得ハ暮ニ至御年貢皆済難仕潰れ出来いたし村地高相増難儀至極仕」「今以潰(ママ)門致出来村地高514石余ニ相成困窮之村方殊更只今相残候立百姓纔24人ニ罷成一向開作可致様無必至と難儀仕候」といわれている(明和4年亥11月「仮免起之帳」岩滝区有文書)。したがって史料で知られる天明5年(1785)以降の岩滝村の農民階層の表はつぎのようである。すなわち、水呑の率の著しく大きいことが知られよう。 このように「外々之村方与ハ格別御延高多被仰付」れた岩滝ではあったが、さきにのべた湊として「小商内船賃又ハ駄賃取外業を以御皆済可成と相勤来候」(寛政6年5月「口上之覚」岩滝区有文書)といわれるように、そうした延高にも拘らず、一応戸口の増大もみたものであろうと思われる。
 
天明5年以降岩滝村農民階層の変化
  庄屋組頭 百姓 割作百姓 水呑
天明5年
(1785)
67 29 89
寛政2年
(1790)
69 108
文化7年
(1810)
93 15 97
文化13年
(1816)
98 109

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