岩滝の産業 92
ー 商 業 ー
岩滝港と農業の関係 −7−


さて岩滝村の事情はそのようであったとしても、男山、弓ノ木などはどういう状態であったのか。それを知る史料は殆んど欠けているが、幕末における岩滝、男山、弓ノ木三ケ村の村高、戸口は次表のようである(明治2年「丹後国村々藩籍取調帳」京都府庁所蔵)。小物成として、岩滝、男山村からは、山手薪、稲木、糖藁運上を出しており、弓ノ木村は山手薪運上がない。肴運上その他漁業に関する諸運上がみられないのは、阿蘇海の漁業権は府中村がもっていたためで、臨海の村々ではあるが漁村としての機能はなかったためである。百姓と水呑の比率をみると男山村の百姓数は不明なので除外するが、この表によれば総家数に対して水呑は弓ノ木村39%、岩滝村53%となっている。 さきの「丹後国村々藩籍取調帳」によると、丹後国の宮津藩領全体では、この比率は34%と計算されるから、岩滝村の53%は特徴的である。
よく知られているように、近世幕藩領においては、領下各村を統治する方法として、各村に村方三役といわれた庄屋、年寄、組頭の村役人をおくと同時に、それらの村のいくつかずつを組合せて、組をつくり、その組ごとに大庄屋をおいて代官の下に隷属せしめ支配力を浸透せしめんとした。宮津藩においては、延宝年中(1673−1680)には領内は15の組に分けられ、奥平氏領有時代には、所領10万石は12の組に分割されていた。
明治2年岩滝各村 村高家数人数表
  村高 新田高 百姓 水呑 人数
岩滝村 1061石5斗8升2合 48石6斗2升4合 142戸 163戸 1368人
男山村 1040石7斗5升8合 24石3斗2升9合 37戸 586人
弓ノ木村 1307石6斗1升2合 31石9斗6升5合 114戸 75戸 926人


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