岩滝の産業 93
ー 商 業 ー
岩滝港と農業の関係 −8−


ついで本荘氏時代には丹後の6万石、122ケ村は5組に区画されていた。こうした組は、その大庄屋を出している村によって何々組と呼ばれていたが、例えば、文政3年(1820)においては、右の5組は、岩屋、網野、岩滝、石川、加悦組であり、天保11年(1840)には河守、皆原、木橋、岩滝、弓ノ木組であり、幕末には、皆原、岩滝、山田、河守、徳光の5組であった。幕末の岩滝組は、岩滝を起点として、阿蘇海北岸の諸村から与謝半島の伊根、本庄宇治にいたる36ケ村、村高合して約15,000石の村々によって構成されている。岩滝組大庄屋には、明和4年(1767)千賀惣兵衛、天保11年には千賀市左衛門、安政5年には糸井市郎兵衛の名前が知られる(「与謝郡誌」上)。阿蘇海以北のこの地域では天和の時の里波見組、天明5年の同じく里波見組、寛政2年の菅野組として両村が大庄屋を出しているが(「与謝郡誌」上及び岩滝区有文書)その時以外は私見の及ぶかぎりでは殆んど岩滝に大庄屋が置かれていたようである。 大庄屋の性格についてはここでは触れる余裕はないが、長い期間をとおして岩滝組として、ここに大庄屋がおかれていたことは、岩滝が阿蘇海以北橋北の政治的中心地になっていたことを示している。
さきにも述べたように岩滝村は湊として重要な意義をしめていた。すでに早く「但馬よりの宿駅又宮津よりの船着也」ともいわれている(元禄2年刊、益軒編「丹後与謝海図誌」丹後史料叢書第三集所収)。奥丹後、但馬への海陸交通の要地というその地理的位置から宮津藩内において、城下町宮津につぐ重要な地点であった。したがって寛文6年(1666)以来、宮津藩はここに「御領内御番所」あるいは「御茶屋」を置いていた(「宮津日記」丹後史料叢書第二集)。そのこともあわせてつけ加えておこう。


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