岩滝の歴史 −150−

郡政・府政・国政への参加(2)

−自由民権運動(その弐)−


明治8年7月宮津の士族だった小笠原長道が結社人となり、宮津に地方政社天橋義塾が設立された。同塾は、人材の養成をつうじて民権を伸長することを目的にかかげ、「民権大意」やフランス民法など、ひろく内外の書籍をつかって百名前後の子弟を教育した。天橋義塾の基礎をきずいた小笠原長道は、小室信夫に見込まれてその長女咲と結婚し、小室信介と改名、明治10年ごろから主として大阪で文筆活動に従事するようになり、丹後地方での運動から離れる。

しかし、彼はその後、民権派の諸新聞を通じて民権思想の普及に努め、広く全国にその名をはせ、「東洋民権百家伝」などの名著を残した。
またその間明治15年には、京都府下から山陰地方まで各地を演説し、組織宣伝活動にも従事した。
小室信夫と信介の活動が、主として岩滝以外の地方でなされたのに対し、岩滝、弓木、男山の各村でも、地味ではあるが自由民権運動に参加した人々がいた。

この人々の活動については、今日まで全くといっていいほど知られていないが、当時の新聞などによってその一端をうかがうことができる。
明治13年(1880)11月、天橋義塾社長沢辺正修は、府下の有志人民2750名の総代として国会期成同盟第二回大会参加のため東上した。このとき沢辺は、国会開設、国約憲法制定の請願書を太政官に提出し、同年暮帰郷したのであるが、これより各地で報告会をつぎつぎと開いた。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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