岩滝の神社寺院 31
寺院(1)
玉田寺(1)


 靈苗山 玉田寺
 臨済宗妙心寺派
縁起 本寺はもと華厳宗の寺で、大内寺といい、天平13年辛己の歳(741)奈良東大寺の住持、良弁僧都が府中国分寺巡察の際、当地に足を止め「西に狼煙山を眺め、東に橋立を望む風光絶佳の地」とほめ、この地に小庵を結んでかなり長く住んでいた。大内寺というのはその庵号で別に玉田ともいったと伝えられている。
 聖武天皇(724〜748)は同師に篤く帰依し、天平15年(743)、勅して華厳釈迦如来の靈像と、田禄若干を贈与した。それ以来華厳の慈容を奉安し本尊とし今日まで伝えられている。この由縁により聖武天皇を開基とし、良弁僧都を開山としている。
 「北に国分寺あり、西に大内の玉田あり。」といわれ、共に法灯降昌し、就中、潤雪、舜雙、竹翁の三哲といわれた名僧を出したけれども、千有余年の長い間寺運を維持し得ず、堂塔は頽廃し殆んど往昔の面影を失った。
 然るに天正元年(1573)丹後国の城主一色義氏は一色氏歴代の香華院として講堂を再建し寺号を靈苗山玉田寺と改め、洛陽の万寿寺から模祖範禅師を懇請し中興の開山とした。
 師の鎚下に覚翁宗悟、法岳祖伝、義山祖仁(玉田寺第2世)の俊英を出し、爾来法孫連綿として7世金陵祖精禅師に至った。彼は深く堂塔の荒廃を憂い、広く百縁をつのり諸堂の大改築を行った。
彼はまた碩学抜秀で「謝海に冠たり」と絶讃された程であった。依って「再中興」の贈号がある。
 その後、嘉永3年(1850)弓木の大火に遭遇し同舎は悉く焼失した。
 9世航岸禅師は檀徒と諮り(此の時浜糸井家建立を申し出たが却下された)浄財を集め嘉永6年(1853)遂に旧観に復した。
 続いて10世祥嶺禅師に大門石段(慶応3年・1867)が、11世大龍禅師に至り山門(明治26年・1893)梵鐘(同29年・1896)が設けられた。
 昭和2年(1927)丹後大震災に観音堂等倒壊したが、本堂庫裡は大事には至らなかった。しかし相当透間を生じ、12世弘宗禅師諸堂の修繕をし、以来13世に及び、本堂西側の拡張、諸堂並びに庭園等の補修改良、梵鐘の再鋳(太平洋戦争供出のため)土塀の設置、隠寮の再建等をして今日に至った。


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