岩滝の歴史 −190−

岩滝町の天災地変(1)

−水害(1)−


大江山の噴火は歴史以前で知る由もないが、竹野郡下宇川(丹後町)上山寺の永代記録その他に残っている大宝元年(七〇一)大地震は、加佐郡の大半が陥没し、嘉永三年(一八五〇)の大洪水は加悦谷を泥海に化したと伝えられる。
又、府中真名井神社前に残っている波せき地蔵尊は十丈の大津波をここでせき止めたと言い伝えられている。
こうした天災地変に、岩滝のみが平安だったとは思われず、相当の被害があったということは容易に推察することができる。しかし、古いものについてはこれを実証する記録は全然残っていないからあくまでも想像に止めることはやむを得ない。

水害
大江山半面と、丹波但馬境界の九十九谷の流れと称せられる野田川は、四里(十六キロ)の途を一直線に流れて来て、岩滝で屈曲する。
したがって、台風期ともなれば堤防が決壊して、立町、浜町が浸水し、井戸も便所も一緒になることが三年目か五年目に必ず訪れ、その都度被害をうけた。
岩滝町では、年々各戸二本の杭(五尺と三尺)郷倉へ提出した。
一朝洪水となれば一戸一人は必ず堤防に集り昼夜警戒に当った。
明治四十年七月十三日より十七日に至る大雨はついに大洪水となり、野田川は刻一刻と水量を増し、危険状態に迫り須津は南側、弓木、岩滝は北側の堤防を厳重に防護していたが、両側とも二ヶ所程度決壊し、北側では決壊の中に残った一丁(約100メートル)ばかりの堤防に逃げおくれた人々が悲鳴をあげて助けをよぶのを、舟を漕いで救出に向ったこともあった。

この大洪水は各堤防の破壊、山崩れ多く野田川にかかっていた橋は、全部流失し岩滝町立町は舟で往来した。大天橋北側約一〇〇メートル切断し、野田川沿線の田畑は殆んど冠水し、農作物は収穫皆無となり一ヶ年間免租された。
こうして年々大きな惨害をもたらした野田川も十有余年にわたる改修工事が完了し現在は水渦を免れることができるようになった。しかしこの陰には先覚者の血の滲むような労苦があったことを忘れることはできない。特に石川村の白須重蔵父子のごとく野田川改修にその生涯をかけたことを附言しておきたい。

 

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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